(日本語編集協力 Mさん)
多くの人が古典的な住宅を保存すべきだという考えを高く評価しているが、社会的および経済的現実により、保存や改修が困難になることがよくある。この状況は、古民家という日本の建築にも当てはまる。
政府による政策や古民家ジャパンネットワーク(Kominka Japan) などの非営利団体が、人々がこれらの家を保存するための困難を乗り超えることができるように支援しようとしている一方で、多くの古民家が近代化やジェントリフィケーション、取り壊しに直面している。
最近、空き家になった古民家を訪ねた。前の世代の人々が深く愛していた住宅を保存することがなぜ難しいのかという課題を考察してみる。
自然と共生する日常
電車で、約1時間、大阪市中心部から約35キロ離れた貝塚という小さな町に到着した。地元の住宅建築は、近代的な低層一戸建て住宅、商業ビル、古民家住宅が混在している。そのなかで、古民家は、より広い土地を占めている。15 分ほど後、案内人と一緒に風格のある古民家の前に着いた。木、粘土、石などの自然素材で構成され、松の木が植えられた和式庭園が施され、まさに大自然と共生する古民家は私の期待とぴったり一致するものだった。
今回の案内人は、ここに30年以上も住んでいたMさん。彼女によれば、建築の歴史は 150 年以上前に遡り、最初の所有者は彼女の義理の曾祖父で、農業の専門家だったため、屋内で農作業がしやすいように家を設計した。例えば、現代の狭い玄関とは異なり、この古民家の玄関は、農作業をするほど広かった。
先端的な機械が乏しかった時代、農作業には骨の折れる労力が必要だったことは想像に難くない。しかし実際にこの家を訪れることによって、先祖たちが肉体的に厳しい生活を送っていたに違いないということを彷彿とさせる場所を見ることができ、衝撃を受けた。
木製のはしごが玄関から 2 階のロフトにかけられて、乾燥した環境で作物を保管するために屋根裏部屋が設計されていた。はしごの急峻さを見ると、私には農作物を手に持って登るどころか、ただ登るのさえ無理だと思えた。
自然とともに生きている前の世代の人々は、私たちの世代よりもっと自然と共に生きることに対して大変献身的であった。自然を装飾として取り入れ、自然を称えるように庭園を造った。一方では、日常生活に影響を与えるほど過酷で厳しいそれと共存していた。このことにどれほど多くの努力を費やしたことか。便利な現代生活に慣れてしまった私たちは、自然とこれほど親密かつ挑戦的な関係を築くことができるのだろうか。
家の象徴
現代の住宅内の空間は、食事、睡眠、洗濯などの活動ごとに分けられる傾向がある。同様に、古民家では機能別に部屋が名付けられているのが一般的である。それぞれの部屋に関連する実用性や美学について、学術研究が数多くある。学術研究に従うのではなく、料理と食事にかかわる人間の最も基本的活動に焦点を絞り込んで見てみると、この古民家で食事がどのように行われていたのか、思い掛けない手がかりを発見した。
Mさんは居間から次の部屋に案内してくれたとき、天井の梁についた黒い煤を指差して、「これは、囲炉裏を長年使っていたせいよ。」と言いながら、畳が敷かれて今は見えない部屋の真ん中の四角い場所を軽くたたいた。見えなくても、博物館や昔の日本映画で見た囲炉裏が頭に浮かんだ。普通、床に掘った石の穴の上に鍋ややかんが吊るされていて、高さを調節するための鍋掛けがついている。
囲炉裏は、料理や食事の場としてだけでなく、暖房や洗濯物の乾燥にも使われ、家庭生活の中心とみなされていた。このようなシーンが想像してもらえるだろうか。ある寒い冬の日、農夫が疲れ果てて農作業から帰宅する。温かい食事が出され、家族と充実した時間を過ごそうとしている。すべての家庭生活が囲炉裏のまわりに集約されている。暖かい囲炉裏の横の畳の上で、ちょっと昼寝をすることもあったかもしれない。家が食べ物と愛情であふれていて、囲炉裏はその家の象徴だったのではないだろうか。
裕福な家庭でも貧しい家庭でも、囲炉裏を中心とした家庭生活が存在した。そのお陰で、人々は親密な家族の交流を共有することができた。しかし、現代になると、テレビが家庭生活の中心になってきた。最近では、家族間の交流は、実際の交流ではなく、モバイルプラットフォームを介した仮想的な交流に変わってしまった。悲しいことに、家族の絆は薄れ、一方で個々の活動はますます閉鎖的になってしまった。おそらく現代の家族の象徴は仮想世界へと退却していくのだろう。
公共ための部屋
世代を超えて受け継がれてきたさまざまな貴重なものを発見することで、100年以上前の生活がどのようなものだったかという謎をわずかに解くことができた。さらに、一番魅力的な空間である大きな宴会室に案内され、昔の生活のビジョンが明らかになった。
この宴会室は、松の木と池で飾られた穏やかな庭園に面し、日本式の静けさを味わうのに最適な場所だった。取り外しできる襖で仕切られた3つの部屋で構成される部屋は、この古民家の中で他のすべての個人スペースを合わせたよりも広いスペースを占めている。
「何十年か前、家族の葬儀を執り行ったとき、この部屋は知り合いでいっぱいでした。大阪市内から嫁いできた私にとっては、このような大規模な家族行事が屋内で行われるのは感動的でした。部屋の端から端まで、参列者はずっと3列に並んで座っていました。」Mさんは言った。その思い出を聞きながら、私は一つの物が気になっていた。宴会屋の一番前には、入り口に向かって金メッキの仏壇が置かれている。その横には、伝統的な水墨画が掛けられ、山と川に囲まれた農家が描かれている。どうやら、仏壇と水墨画とは、厳粛な儀式の間、参列者の心を精神的に導くのに大きな役割を果たしていたようだ。
そして、この部屋のもう一つ役割を紹介していただいた。地元の人々は、町の生活を改善するための提案など、重要な議題を話し合うために、ここで集まり、宴会の部屋は地元の会議としても使われていた。この部屋は宗教と芸術の昇華された要素が非常に豊かだったので、皆さんの会議にどれだけインスピレーションが浸透していたことかと考えた。
嘆き、喜び、知恵の共有など、その部屋で起こったことは公衆のものだった。今日では、家といえば、私有空間の所有権という強い意味合いを持つ。葬儀のような家族の重要な行事は、自宅で行われることはほとんどなく、専門の葬儀場で行われている。地元の会議も、公共の施設などで行われている。私有空間と公共空間の境界が今ほどはっきりとしていたことはなかった。今日では、自宅に公共目的の部屋を作ることは、かなり風変わりに思える。
古民家の将来
訪問の最後に、Mさんは古民家についてのジレンマの話をしてくれた。先祖から、この古民家を保存することが不可欠だとMさんの夫は聞かされて育ってきたのだ。重い責任を背負いながら、不動産会社に売却するという決断を下すのは、家族にとって非常に辛いことだった。かつては美しかった物が、衰えていくのを目の当たりにするのは、耐え難いほど辛いことでもあるということは、誰もが共感できるだろう。
この古民家が売却された後、保存されるのか、他の建築形式に改造されるのか、資産として取り壊されるのかは不明だ。どんな結果になっても、この誇り高き古民家が1世紀以上にわたって体現してきた自然、家、コミュニティの価値の一部を提供してくれることを願っている。