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トウモロコシの耐えられない軽さ

(日本語 編集協力:  石﨑史子)

アートは、雲を掴むような頼りないものだという観点が世の中に存在する。私もそう思っていた。やっちゃんのアートワークを制作過程を目の当たりにしたことから、この考え方が変わり始めた。

やっちゃんとの出会いにあたって、勘違いのエピソードがある。その日、自転車でアトリエひこに向かっていると、あと10メートルのところで金づちで壁を打つような音が響いてきた。「トン、トン、トン」と続く何秒か後に、しばらく空白があり、もう一度「トン、トン、トン」と安定したリズムで音が響く。強いリズム感を持つ大工さんが来ているのか?アトリエひこにある古い建物が改修されているのか?

アトリエの部屋に入ると、たくましいやっちゃんが真剣に創作している姿が見えた。彼は非常に集中力があり、小さいカラー釘一つずつを打つとともに、何か「フン、フン、フン」と微かな声が聞こえた。

あれ、間違えたんだ!当たり前に大工の工事だと思っていた私は、先入観に惑わされてしまったことに気が付き、恥ずかしかった。金づちで釘を打つ行為は、建築の仕事とは限らずに、アートワークの可能性もある。でも、壁を打つのではなく、なんで「トン、トン、トン」という音がするのか。

思い掛けないことに、原因は紙管だ。その紙管は、普通で見られるものではない。紙が幾重にも重ねられた非常に頑丈なもので、元は布地が巻かれていた。やっちゃんはその上に染料を混ぜたボンドをたっぷりと塗り、一週間ほど乾かす。思いもかけない処理によって、紙の潜在的な可能性が解放されそうだ。

1時間半にわたって、やっちゃんはじっと座り、紙管へ釘打ちを繰り返した。肩、肘、手首を脱力させ、金づちの重みと振り落とす力をうまく使って、それでも初夏の午後、彼の額には汗が滲んだ。

紙管が転がりがちなことから、その上に釘を打つのは不安定だ。左手で次に打つ釘を10本ほど持ちながら、紙管を支え、右手で、「ここ」という場所めがけて、金づちを振り下ろす。さらに、ほぼ同じ間隔をあけて、カラー釘を一線打ち並べるのは難しい。

それほどやっちゃんが根を詰めるのはなぜだろう?その没頭の楽しみは何なのだろうか?先入観を捨てて、目の前で繰り広げられている光景を根拠にして、推理しようと思った。

右手と左手がお互いに協力しているのを見ながら、石﨑さんからやっちゃんの大好物はトウモロコシだと聞き、ぴったりだと思った。紙管の形状も釘の間隔も、トウモロコシの穂軸と似ている!それを解決できただろうか?自分の力で、大好きな物を作れば、満足感をいっばいで得られるかもしれない。その感情は共感できるだろう。

「やっちゃんにとっては、釘は「理不尽」を表しているかもしれない。無数の「理不尽」が打ち込まれる度に、少しだけ解消され、大好物のトウモロコシとして昇華される。」と石﨑さんが話しくれた。やっちゃんが初めて「とうもろこしアート」を作り始めたのは、中学卒業式の大変で混乱した時期だったということを石﨑さんから聞いた。彼にとって、人は人生の節目で別れなければならないことは「理不尽」だった。

もう一つは、作品そのものにあるかもしれない。やっちゃんは釘の尖った端を紙管の中央に打ち込み、曲面にはカラー釘の丸くて滑らかな頭を残す。そのため、表面には無数の鮮やかな円が秩序正しく並んでいる。ひるがえって、内側には傷をつけられるような茨を隠している。逆のイメージが一つ作品に凝縮されている。

真剣な顔で制作を続けるやっちゃんの作品にはどんな感情があったのだろうか。それが満足なのか不安なのか、紙管の内側のような心の中の機嫌は分かりにくい。釘だらけのトウモロコシが元の紙管より何倍も重くなっていた。しかし、作品を完成した瞬間、彼ははまるで重荷から解放されたかのように勢いよく椅子を立ち上がった。彼の満足感を感じられるだろうと想像した。

数々の「理不尽」に耐えられずに蓄積してきた重みが、その瞬間にやっちゃんから部分的に離れていったのかもしれない。なのに、同様のプロセスを何度も繰り返さずに、その重さを軽減できるだろうか?

そこで、ある疑問が芽生えることになった。私たちはアート作品を前にどう対峙すれば良いのだろう。時に、雲を掴むような頼りなく、時に、意味が深くて重さが予想となることもある。学者たちは芸術を客観的に分類、定義、解釈しようと試みているが、主観的な判断は各人の経験によって異なる。これは、アトリエひこで作成される「アール・ブリュット」の種類ほど明らかだ。そして、紙と釘で作られた重いトウモロコシが耐えられない軽さを伝える可能性があるのか?

先入観を捨てて、作品を受け入れ、それがどのように作られたのかを探ることから作品に取り組むと、自分自身のレンズを通してアートを体験することができる。アンビバレントない心情に揺さぶられ、耐えられなくなることもあるかもしれない。それこそがアート体験とも言える。

By Jude Jiang

Jude Jiang is a bilingual writer based in China. She has a strong interest in bridging the understanding between western and eastern worlds through storytelling.

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